エチオピア歴史年表
Updated on Jan. 23, 2020
紀元前1世紀頃
メネリク1世によりアクスム王国創設
2世紀
アクスム王国が貿易により大きな力を持つ。
4世紀
クシュ王国を滅ぼし、アクスム王国の最盛期を迎え、領土はアラビア半島南部にまで至る。
エザナ王がキリスト教に改宗しキリスト教を国教とする。
7世紀
アラビア半島がイスラム勢力の支配下となり領土が縮小。
12世紀
ザグウェ王朝が成立
12-13世紀
国王ゲブレ・マスケル・ラリベラによりラリベラの岩窟教会が建設される。
1270年 メネリク1世の流れを組むソロモン王朝が成立
14世紀 アムダ・セヨン1世の統治下で版図を拡大
1530-31年
イスラム教のアマド・グランがエチオピアの大部分を侵略
1855年
テオドロス2世が即位。国内の再統一をはたす。
1868年
イギリス軍と交戦したマグダラの戦いでテオドロス2世が自決
1872年
ティグレのリーダーがヨハンネス4世となる。
1878年3月20日
ヨハネス四世とメネリク二世が国を分け合い統治することに
1887年 エチオピア軍とイタリア軍が衝突
1889年 ヨハンネス4世がマディスト軍との戦いで戦死。メネリク2世が即位。ヨーロッパ勢力に対抗し、国の独立を守る。
ウッチャリ条約をイタリアと結ぶ
アジス・アベバがエチオピアの首都となる。
1895年 イタリアがエチオピアに侵攻
1896年3月1日
エチオピア軍とイタリア軍がティグレ州のアドワ(Adwa)で衝突。
メネリクが指揮するエチオピア軍10万人に対して、イタリア軍は2万人。イタリア軍が敗北。
ウッチャリ条約が破棄され、イタリアはエチオピアを独立国と認めるものの、エリトリアを支配。
1913年
メネリクが死去。メネリクの孫リジ・イヤス(Lij Iyasu)が後継者となる。
1916年
リジ・イヤスが退位させられ、メネリクの娘ザウディトゥが即位し摂政を通じて政治を行う。
1923年 国際連盟加入
1930年 11月2日 ザウディトゥが死去。ラス・タファリ・マッコーネンが皇帝となり、皇帝ハイレ・セラシエI世を名乗る。
1931年 エチオピア帝国憲法制定
1935年10月3日 イタリアがエチオピア侵略。
1936年 首都アディスアベバ陥落。イタリアがエチオピアを併合。
ハイレ・セラシエは逃亡し、エチオピア、エリトリア、イタリア・ソマリランドがイタリア領東アフリカとなる。
1941年 ハイレ・セラシエ1世がイギリスの助けを得て、アディスアベバを奪還し、エチオピアは再度独立国になる。
1952年 国連決議によりエリトリアがエチオピア連邦に参入し、エチオピア・エリトリア連邦が成立
1955年 新憲法公布
1962年 エリトリアを併合
1963年 アフリカ統一機構(Organisation of African Unity)の第一回会合がアジス・アベバで開催される。
1973-74年 飢饉によりウォッロ地方で約20万人が死亡。
1974年8月26日 BBCがウォッロ地方の飢饉についてのドキュメンタリーをハイレ・セラシエ皇帝の贅沢三昧の生活とともに放映。
1974年8月27日 革命により王制廃止。タファリ・ベンティ将軍が国家元首となる。
1974年12月20日 社会主義国家建設宣言がなされ、タファリ・ベンティを議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC)が設立
1975年8月 皇帝ハイレセラシエが宮殿で死去。
1977年2月 ベンティが処刑され、メンギスツ・ハイレ・マリアム大佐が後継者となる。
1977-79年 メンギスツによる恐怖政治。農業の集約化がはじまる。
ティグレ人解放戦線(Tigrayan People’s Liberation Front)がゲリラ戦を開始。
1977年7月 ソマリアがエチオピアのオガデン地方に侵攻。オガデン戦争がはじまる。
1978年3月 キューバのフィデロ・カステロやソビエト連邦の支援を受けたエチオピア軍がソマリア軍を撤退させる。
1984年 メンギスツが書記長となるエチオピア労働者党が設立
1984-85年 史上最悪の飢饉がエチオピア北部を襲う。エリトリアやティグレ地方から多くの難民が発生。
1987年 エチオピア人民民主共和国樹立し、メンギスツが大統領となる。
1988年 エチオピアとソマリアが平和条約を締結
1991年5月 エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF:Ethiopian People’s Revolutionary Democratic Front)が首都に侵攻し、メンギスツ政権が崩壊。
1991年5月21日 メンギスツ大佐がケニヤ、そしてジンバウウェに逃亡。エリトリアは独自に暫定政府を樹立し、独立に向けた国民投票を行う。
1991年7月 エチオピア暫定政府が成立し、EPRDFのリーダであったメレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)がリーダーとなる。
1992年 皇帝ハイレ・セラシエの遺骨が宮殿のトイレで発見される(2000年にトリニティ教会に埋葬される)。
1993年5月 エリトリアがエチオピアから独立
1994年 エチオピアで新憲法が施行され、人種ごとに分かれた州が制定される。
1995年5~6月 第1回国会選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)実施
1995年8月 暫定期間終了,エチオピア連邦民主共和国樹立,メレス・ゼナウィが初代首相となり新政権が樹立
1998年5月〜2000年 エチオピア・エリトリア国境紛争勃発
2000年12月 エリトリアとの包括的和平合意成立。軍を国境地域から撤退させ国連平和維持軍が配備される。
エリトリアはバドメ(Badme)を統治するが、多くの地域はエチオピアが支配。
2000年5月 第2回国会選挙
2002年4月 国境委員会によりエリトリアとの(地図上の)国境線が確定
2004年1月〜2月 エチオピア西部のガンベラで民族紛争。約200人が犠牲となり、数万人の人々が居住地を失う。
2004年3月 200万人の移住計画開始。
2005年3月 ヒューマン・ライツ・ウォッチがエチオピア軍によるガンベラ地方に住むアヌアク(Anuak)人に対する、虐殺、レイプ、拷問を非難。
2005年4月 1837人にイタリアに略奪された方尖塔(ほうせんとう:obelisk)がローマから返却される。
2005年5月 第3回国会選挙。
2005年6月・11月 選挙後に暴力的な抗議活動が生じる。193名の抗議者と7名の警官が死去。
2005年8月〜9月 再選挙を実施。与党は、政権を維持するために十分な数の議席を獲得した、と発表。
2005年11月1日 統一民主連合党(Coalition for Unity and Democracy;CUD)の書記長であるHailu Shawel(ハイル・シャウェル)議長をはじめ、幹部などが暴動を扇動し、政権交代を企てたという罪で逮捕され、無期懲役となる。
2005年12月 ハーグの国際委員会がエリトリアが1998年にエチオピアを攻撃したことは、国際法違反であるとの見解を発表。
11月に生じた暴動に関連して、ジャーナリスト、反勢力リーダーなどを含む80名以上もの人々が反逆罪、大量虐殺の罪で起訴される。
2006年11月 エチオピア軍がソマリアに侵攻。首都と国の大部分を支配しているイスラム原理主義者との戦争。
2006年12月 独裁政治を行ったメンギスツ・ハイレ・マリアムが不在のまま有罪判決を受け、12年間もの裁判に終止符。後日、死刑が決定された。
2006年12月 エチオピア政府ががソマリアに侵攻したことを認める。ソマリアの大部分を支配するIslamic Courts Unionは、エチオピアに対してジハード(聖戦)を宣言。
政治評論家は、エチオぴあはアメリカ合衆国から支援を受けており、ヨーロッパ諸国からも支持を受けていると分析。
2007年7月20日 2005年11月に逮捕された統一民主連合党(Coalition for Unity and Democracy;CUD)のリーダーが釈放される。
2007年9月12日 先進国の暦とは異なる暦を使っているエチオピアが、21世紀に突入。メレス・ゼナウィ首相は「エチオピア暗黒時代の終焉が幕をあける」と宣言。
2008年7月 国連安全保障理事会がエチオピアとエリトリアの国境紛争を監視している国連平和維持軍のミッションを終了させる投票を行い、決定。
2008年9月 1937年にイタリアに持ち去られ2005年に返還されていた、1700年前に造られたアクスムのオベリスクが修復され、元の場所に建立される。
2008年12月30日 2007年7月に釈放された統一民主連合党のリーダーブルトカン・ミデクサが、再度逮捕され、終身刑を受ける。
2009年6月 エチオピア政府が、1月にソマリアから撤退していたはずエチオピア軍が「偵察目的」でソマリアに駐留していることを認める。軍の再配備については否定。
2009年12月 オガデン国民自由戦線(Ogaden National Liberation Front)が東部の町々を制圧したと発表。
2010年5月 与党であるエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)大多数で国会選挙に勝利し、メレス・ゼナウィ首相の4期目が開始。国際監視官は不正を指摘。
2012年8月 メレス首相逝去。同年9月,ハイレマリアム・デッサリン副首相兼外相が首相に就任。
2013年10月 ムラトゥ大統領就任
2015年5月 第5回国会選挙にて、チオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が勝利するも反対勢力からは大きな反発。
2015年10月 ハイレマリアム首相再任
2016年10月 数ヶ月に渡る反政府運動ののち、エチオピア政府は非常事態宣言を行う。
2018年2月 反政府運動が続けられるなか、ハイレマリアム・デッサリン首相が辞任。
2018年4月 オロモ人であるAbiy Ahmed Ali(アビー・アハメド・アリ)氏が首相に就任し、包括的な政治改革と外交政策を打ち出す。
2018年5月 エチオピア政府は数千人にも及ぶ政治犯を釈放し、非常事態宣言を解除。
2018年7月 エリトリアとの外交関係再開,相互に大使館を設置。エチオピアは軍を紛争地域から完全に撤退。
2018年10月 エチオピア政府はオガデン国民自由戦線(Ogaden National Liberation Front:ONLF)と平和条約を締結し、34年にも及んだ分離派との戦争を終結。
ムラトゥ大統領が辞職。国会はサヘル・ワルク・ゼウディを1928年から1938年に就任していたザウディトゥ皇后以来、初めての女性大統領に選出。
2019年3月 エチオピア航空機がアジス・アベバの南東で墜落す、乗客、乗務員157名全員が死亡。この事故を契機に過去に8件もの事故を生じているボーイング727機の調査はじまる。
2019年6月22日 アムハラ州にてクーデター未遂事件発生。
アムハラ州の州知事(the Presidento of Amhara region)であるAmbachew Mekonnen(アンバッチュ・マコーネン氏)と彼のアドバイザーEzez Wassie(エザジ・ワッシエ氏)がアムハラ州の警備長Asaminew Tsige(アサミノ・ツゲ)によって射殺される。
その数時間後に軍参謀総長であるSeare Mekonnen(セアラ・マコーネン氏)がアジス・アベバの自宅で、彼のボディガードに射殺される。
2019年10月11日 Abiy Ahmed Ali(アビー・アハメド・アリ)首相がノーベル平和賞に決定。
2019年12月10日 Abiy Ahmed Ali(アビー・アハメド・アリ)首相がノーベル平和賞を受賞。
オスロにて、受賞者講演を行う。(全文&全訳)
参考文献
DTAC エチオピア観光情報局 2019 「国のデータ・歴史」DTAC エチオピア観光情報局ウェブサイト(http://www.dtac.jp/africa/ethiopia/history.php)Last accessed on Apr. 30, 2019.
外務省 2019「国・地域 > アフリカ > エチオピア連邦民主共和国 > エチオピア基礎データ」外務省ホームページ(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ethiopia/data.html)Last accessed on Apr. 30, 2019.
Barry Malone 2010 TIMELINE-Key dates in Ethiopia’s history. Reuter Website (https://www.reuters.com/article/ethiopia-history-idAFLDE64J1EI20100520)Last accessed on Apr. 30, 2019.
BBC 2019 Ethiopia profile – Timeline BBC website (https://www.bbc.com/news/world-africa-13351397) Last accessed on Apr, 30, 2019.